30 鈴木藤三郎と地域の産業社会
森町は、古くから信州街道の中継地であり、北遠の茶、古着商売などの商業の中心地であった。鈴木藤三郎は、森町の古着商に生まれ、養家の菓子商で苦心惨胆の末、氷砂糖の製法を発明した。いったんは茶商になろうとしたが、ある時、報徳の教えに目覚めた彼は菓子商に戻り、経済合理主義的な報徳の教えを実践し、みごとに利益を上げて、精製糖の生産会社を台湾まで進出させるなど、製糖業界の発展に寄与した。彼は、そのほか、塩・醤油などの新しい製法を発明し事業を盛り上げた。
日清戦争直後の1896年(明治29年)7月から97年5月まで、砂糖製法技術の習得のためにヨーロッパ視察旅行に出かけて、
「米欧旅行日記」に記している通り、現地で関連する機械製作技術を獲得し、日本の産業革命のリーダーの1人となった。彼が取得した特許件数は159件にのぼり、機械の豊田佐吉とともに「発明王」(特許王)と呼ばれた。
東京に居を移してから郷土森町などの商工業発展のために、周智郡実業会と駿東郡実業会を組織してそれぞれの会長となった。この事業者団体の結成は全県に先駆けてのものであった。東海道線佐野(さの)(裾野)駅ちかくに報徳思想による農場を経営、農業技術改良に取り組み、衆議院議員として2期、国政に活躍した。周智農林学校を地元の福川泉吾(せんご)とともに開設して、地域教育にも尽くした功績は大きい。
(1)鈴木藤三郎とその周囲の人々
(2)鈴木藤三郎写真
(3)向天方の茶畑
(4)森の茶出荷風景
(5)日本糖業論
(6)敵兵に襲れる馬上の武将藤三郎
(7)露国渡航許可証
天宮の簿愚痴小太郎は塩鮭などの海産物輸入貿易の大店であった。
(福田町 個人所蔵文書)
特許主 鈴木藤三郎の特許技術
1898年(明治31年)~1913年(大正2年) 合計159件
氷砂糖製法・装置・醤油エキス製造のための液汁煮詰製造措置、醤油醸造法、製塩機、蒸気発生機、燃焼装置、乾燥装置、自動精穀機、蒸気缶、魚介煮詰等の汁液乾燥装置、養蚕室用暖炉、生糸乾燥装置、鰊枠揚装置など
発明の経路
氷砂糖−白糖製法−東京移転−鉄工部(外国機械依存の克服)−「日本糖業論」−衆議院議員(砂糖消費税反対)−醸造業への進出−在来業者の抵抗と債権者鴻池銀行の圧迫、尼崎工場の相次ぐ失火−製糖業からの脱却−乾燥装置の発明(1911年〔明治44年〕のみで41件)−「乾燥富国論」で日本醤油の失敗の償い−1911年、釧路に鈴木水産工場を設立(乾燥技術と煮沸技術の合体)「乾燥富国論」1911年(明治44年)「明治四十年・・日本醤油醸造株式会社ヲ創立シ(中略)二百年来旧慣ヲ墨守シタル本邦醤油醸造界ニ一大革新ヲ企テタリ。」しかしわずかに3年にして経営が行き詰まった。だが「予ノ発明ニ係ル醤油醸造方法及其装置ノ能力ニ対シテハ、昔日ノ確信毫モ衰ヘザルノミナラズ奮進ノ念更ニ倍加シ」たものの、関係者の賛同を得られなかった。広く日本の工業界を見渡せば、乾燥技術の未熟なために1か年にして1億円もの損失。そこで乾燥技術の革新を行おうとする、と所信を述べている。それは30年来取り組んできた蒸発技術の一環であるともいう。この乾燥装置の発明は、食糧方面だけではなく養蚕業の繭の乾燥にも使われた「特許鈴木式乾燥装置」
(8)秋葉馬車鉄道
(9)二俣線の開通 (森町教育委員会所蔵写真)
(10)森川橋を渡る天竜浜名湖鉄道ディーゼル
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更新日:2019年03月05日