17 森町の城郭

更新日:2019年03月05日

森町の山城(やまじろ)をめぐる戦いは1501年(文亀元年)の天方本城(あまがたほんじょう)(大鳥居)に始まる。城を守ったのは今川方の天方通季(みちすえ)軍、攻めたのは斯波(しば)・小笠原連合軍。通季は一時、城を奪われ、付近の山上に避難し、今川軍本隊の応援によってようやく城を奪還(だっかん)することができた。
通季の孫にあたる 通興 ( みちおき ) は、徳川家康軍が遠江に侵攻してくることを予想して、1568年(永禄11年)ごろ、向天方に天方 新城 ( しんじょう ) (現在の天方城)を築いた。1569年6月、徳川軍は大挙して同城を襲い、通興を降伏させ、続いて飯田城の 山内 ( やまのうち ) 通泰 ( みちやす ) 軍を攻めてこれを滅ぼした。通泰の 庶子 ( しょし ) 伊織 ( いおり ) が、家臣の 梅村 ( うめむら ) 彦兵衛 ( ひこべえ ) に伴われて三河(愛知県)へ落ちのびたのは僅かな救いであった。
1572年(元亀3年)、こんどは北から武田信玄軍が遠江へ攻め込んできた。 

信玄は天方新城に部下の久野弾正(くのだんじょう)を入れ、飯田城も攻略し、さらに南下して東海道に出て磐田原(いわたばら)台地を北上し、二俣(ふたまた)城を落としたのち、三方ヶ原(みかたがはら)で徳川軍を大破したが、西進の途次、陣中で病没した。
家康は1573年3月、いったんは武田軍に攻略された天方城・ 各和 ( かくわ ) 城などを奪い返し、 一宮 ( いちのみや ) ( 片瀬 ( かたせ ) )城・ 向笠 ( むかさ ) 城を攻めた。一宮城を守っていた 武藤 ( むとう ) 氏定 ( うじさだ ) は 亀ノ甲 ( かめのこう ) (掛川市)へ逃れ、向笠城も一戦も交えず敗れ去った。6月、徳川軍は一宮城・ 社山 ( やしろやま ) 城(豊岡村)に防御柵を構築して 二俣 ( ふたまた ) 城の押さえとし、浜松城へ帰陣した。
氏定は、その後も武田方に属し、1581年(天正9年)、高天神(たかてんじん)城(大東町)で徳川軍と戦い、壮烈な戦死を遂げた。

(1)城ヶ島の城跡

城ヶ島の城跡の写真

山内氏から大鳥居へ進出する以前の拠城。
(森町鍛冶島 栗之島)

(2)天方新城

天方新城を遠くから撮った写真

現在天方城と呼ばれている。 所属は今川→徳川
→武田→徳川と推移。
(森町向天方)

(3)天方本城

天方本城を遠くから撮った写真

今川軍×斯波・小笠原連合軍。 (森町大鳥居 本城山)

(4)真田山城

真田山城の外観画像

真田城とも。 武藤氏が片瀬城を築く以前の拠城。
(森町一宮 宮代)

図−21 森町域内外の城郭をめぐる攻防戦図 (1501年〜1573年)

森町域内外の城郭をめぐる攻防戦図 (1501〜1573年)

(5)飯田古城

飯田古城のあった場所を撮った写真

山内氏が飯田へ進出し、初めて築いた城。 崇信寺寺域とほぼ重なる。
(森町飯田 中飯田)

(6)飯田城

飯田城の写真

現在、飯田城と呼ばれている。 通泰築城か。
(森町飯田 中飯田)

(7)片瀬 (一宮) 城模型

片瀬 (一宮) 城を模型で再現した写真

(森町一宮 片瀬 京都科学写真提供) 

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