11 飯田荘と都うつし
飯田荘は、蓮華王院領(三十三間堂)で白河・鳥羽・後白河三代上皇の御起請地(ごきしょうち)であった。白河天皇は、1075年(承保(じょうほう)2年)に法勝寺(ほっしょうじ)(国王の氏寺)の造営に着手し、1083年(永保(えいほう)3年)には愛染堂や八角九重塔が建立され、受領(ずりょう)(地方へ赴任した国司)経済的支援が大きな力となって完成されている。
飯田荘観音寺は、この法勝寺の直末寺で、後の記録では、 東補陀落山 ( ひがしふだらくさん ) 観音寺とあり、同寺の境内からは、加法経を埋納した経塚がいくつか確認されている。その後、当荘は皇室領荘園として伝領された。鎌倉期以降の 地頭 ( じとう ) (現地支配の武士)は、山内首藤氏である。
飯田荘は、観音寺を拠点に、都から下った僧侶や神人・寄人などが 都鄙 ( とひ ) 間の地域的交流の一端を担い、
太田川を京都の加茂川に見立て、戸綿の賀茂山に賀茂三社(都の地主神)を勧請(かんじょう)し、荘園の南界には疫病を祓い流す祇園(ぎおん)祭(山名神社)も始まったようである。これと相まって、小國社を中心とした遠江の国神祀りも確立され、「都うつし」(京都を模倣した都市設計や文化の流入)が推進されたようである。
太田川の西は遠江の学問所である蓮華寺(天台宗)、東は、国王の氏寺法勝寺直末観音寺(真言宗)が大きな勢力を示していたと考えられる。
飯田荘は、吉川流域を上郷(かみのごう)、戸綿を戸和田郷(とわたのごう)、現在の飯田を下郷(しものごう)と言い、現在の下飯田は山梨郷や宇刈郷とは同じ文化圏にあった。とくに、高平山遍照寺(へんじょうじ)は春岡西楽寺の奥院で、平安末期に開かれた寺院であり、境内からは当時の瓦も出土している。
(2)鳥羽法皇像
(4)東補陀落山観音寺絵図
図−17 寺社配置図
図−18 京都寺社配置図
(5)飯田荘戸和田郷の賀茂山
(6)京都上賀茂神社祭礼 ( 奉幣 ( ほうへい ) の儀)
(7)京都上賀茂神社神馬
(8)太田川絵図
(9)高平山に移された観音寺観音堂
(10)飯田祇園祭
(11)観音寺出土経塚遺物
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更新日:2019年03月05日