11 飯田荘と都うつし

更新日:2019年03月05日

飯田荘は、蓮華王院領(三十三間堂)で白河・鳥羽・後白河三代上皇の御起請地(ごきしょうち)であった。白河天皇は、1075年(承保(じょうほう)2年)に法勝寺(ほっしょうじ)(国王の氏寺)の造営に着手し、1083年(永保(えいほう)3年)には愛染堂や八角九重塔が建立され、受領(ずりょう)(地方へ赴任した国司)経済的支援が大きな力となって完成されている。
飯田荘観音寺は、この法勝寺の直末寺で、後の記録では、 東補陀落山 ( ひがしふだらくさん ) 観音寺とあり、同寺の境内からは、加法経を埋納した経塚がいくつか確認されている。その後、当荘は皇室領荘園として伝領された。鎌倉期以降の 地頭 ( じとう ) (現地支配の武士)は、山内首藤氏である。
飯田荘は、観音寺を拠点に、都から下った僧侶や神人・寄人などが 都鄙 ( とひ ) 間の地域的交流の一端を担い、

太田川を京都の加茂川に見立て、戸綿の賀茂山に賀茂三社(都の地主神)を勧請(かんじょう)し、荘園の南界には疫病を祓い流す祇園(ぎおん)祭(山名神社)も始まったようである。これと相まって、小國社を中心とした遠江の国神祀りも確立され、「都うつし」(京都を模倣した都市設計や文化の流入)が推進されたようである。
太田川の西は遠江の学問所である蓮華寺(天台宗)、東は、国王の氏寺法勝寺直末観音寺(真言宗)が大きな勢力を示していたと考えられる。
飯田荘は、吉川流域を上郷(かみのごう)、戸綿を戸和田郷(とわたのごう)、現在の飯田を下郷(しものごう)と言い、現在の下飯田は山梨郷や宇刈郷とは同じ文化圏にあった。とくに、高平山遍照寺(へんじょうじ)は春岡西楽寺の奥院で、平安末期に開かれた寺院であり、境内からは当時の瓦も出土している。

(2)鳥羽法皇像

鳥羽法皇像の絵

1156年(保元元年)7月2日没。 一週間後に保元の乱がおこり、『愚管抄』には、「武士ノ世トナリケル也」と見える。
(個人所蔵)

(4)東補陀落山観音寺絵図

東補陀落山観音寺絵図

江戸後期には観音堂だけになっているが、寺中からは平安末期の遺物が多く出土し、坊の跡も残っていた。
(森町飯田 個人所蔵)

図−17 寺社配置図

寺社配置図

太田川は都の鴨川に相当し、戸綿の賀茂社・飯田の観音寺・飯田天王社と川に沿って存在する。円田の大城戸は、勅使の座所で、国神祀祭者の旅館跡でもあり、京都の御所に相当する場所であろう。

図−18 京都寺社配置図

京都寺社配置図

足利健亮氏作成 「平安京と四神」 NHK 『人間大学』 景観から歴史を読む。一部追加。

(5)飯田荘戸和田郷の賀茂山

飯田荘戸和田郷の賀茂山の風景写真

中央の茶畑の平坦地が中世賀茂宮の跡。 (森町睦実)

(6)京都上賀茂神社祭礼 ( 奉幣 ( ほうへい ) の儀)

京都上賀茂神社祭礼 ( 奉幣の儀)の様子

天皇の名代である勅使が参向し、随員が幣帛(へいはく)を奉じる。
(平成10年5月15日)

(7)京都上賀茂神社神馬

京都上賀茂神社神馬の写真

雨が止むように白馬を、降雨には黒馬を奉納する。
(平成10年5月15日)

(8)太田川絵図

太田川絵図

(9)高平山に移された観音寺観音堂

高平山に移された観音寺観音堂の外観画像

(10)飯田祇園祭

神輿を担いでいる人たちの様子

(11)観音寺出土経塚遺物

観音寺出土経塚遺物一覧の写真

飯田観音寺本堂裏山から出土した如法経外容器群。
飯田一木寿平氏旧蔵経筒は霊芝雲が陰刻されたものであったという。
(森町教育委員会保管)

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