13 田能天王社大般若経
14世紀は、1333年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡、後醍醐天皇による「建武の新政」・南北朝の争乱と合一(1392年<明徳3年>)と次々に大きな事件が起こった。町域でもいろいろな動きがあった。飯田荘加保村等の地頭であった備後の山内通継は、足利尊氏軍に従い、各地を転戦した。のちの飯田郷領主山内氏はこの所領を受け継いでいる(系譜的関係は明確ではない)。1351年(正平6年)周防国(山口県)の常陸親王(南朝の皇子)の許に一宮社の関係者と思われる「一宮(いちのみや)源蔵人大夫(みなもとのくろうどだゆう)入道(にゅうどう)」が従っている。また、この頃一宮庄大田郷(おおたのごう)一藤名(いちふじみょう)は少貳(しょうに)氏の所領となっている。この子孫はのち、武藤氏と改称、室町幕府奉公衆となる。
南北朝期の1384年(永徳4年)〜1387年(嘉慶元年)にかけて、三倉郷 田能 ( たのう ) 「天王社」の大般若経600巻が書写された。
これは現在町域に残っている確実な最古の文字資料で、御経を書写した人物・寺社名・所在地名・金銭等を援助した人物等が記載されており貴重な資料である。大般若経は災いを除き、天下太平・国土安寧などに効力があると信じられ、中世では転読(てんどく)が社寺の年中行事に組み込まれていた。この頃、岩室寺や一宮庄天満宮でも大般若経書写されていた。大般若会は、その後も行われ、人々身近な現世利益(げんぜいりやく)を祈念したのであろう。
この時期、遠江の守護は今川氏であった。今川氏は守護権限を最大に活用して、遠江の武士を権力機構に組み込んでいった。やがて、15世紀初頭、守護職は斯波氏(しばし)に交替し、以降、1世紀にわたる支配が開始された。
(1)田能の集落
(2)大般若経
(3)十六善神画蔵
(4)蔵泉寺
(5)田能大般若会
(10)古瀬戸瓶子
このページに関する
お問い合わせ先Inquiry
社会教育課 文化振興係
〒437-0215
静岡県周智郡森町森92-1
電話番号:0538-85-1114
メールでのお問い合わせはこちら
更新日:2019年03月05日