23 絵図から見た村落の諸相

更新日:2019年03月05日

現在の森町域は、近世には周智郡・佐野郡・豊田郡内の48か村からなり、元禄期の領主は、[19]表−7のごとくであった。
村役人は、 名主 ( なぬし ) ( 庄屋 ( しょうや ) )・ 組頭 ( くみがしら ) ・ 百姓代 ( ひゃくしょうだい ) で、法令や 触書 ( ふれがき ) の徹底、年貢割付、収納、夫役の分担、村内の治安などに勤仕していた。村役人の交代は、弘化3年の谷川村の場合、名主の死去後村中で選出し、理由を領主に申し出て追認処理をおこなっている。
近世の村落状況のすべてを紹介することは出来ないが、武士階級が、本百姓から全余剰労働生産物を年貢として「生かさぬ様、殺さぬ様」収奪する幕藩体制の基本は当地でも変わらない。
1665年(寛文5年)寺請制度を一例とすれば、この年宗門人別帳作成が義務付けられ、 

大鳥居村では、蔵雲院への旦那寺の請印を求め、寺からは「宗旨(しゅうし)改旦那請手形」が出され、宗旨を明確にして人員の把握をし、一揆などの宗教的団結を阻止させた。これが、寺の檀家制度の名残となっており、五人組制度は現在の町内会隣組の基盤となったものである。
絵図には、村落の情報が多く残されており、見る者を楽しませてくれる好史料である。江戸時代における災害・早魃(かんばつ)・長雨による飢饉は、現代以上に民衆に大きな影響を及ぼし、即座に生死を考えざるを得ない状況にあった。下の「円田用水八ヵ村絵図」は村落の区分や面積比率、井水(いすい)の分配、交通網などがよくわかり、水路からの用水量は村高によって定められていた。

(1)円田用水八ヵ村絵図

円田用水八ヵ村絵図

森町南部域の水田を「田面(たおも)」と呼ぶが、一般には「とおもん」と称している。
この田面は、地質の優れた良い農地で、近世の総高は、約5300石余であろう。
小藪川は粟倉大西上流までを「用水」という。 それより下流を「小藪川」と呼ぶ。
円田用水は、大井八ヵ村組合によってこの「とおもん」を潤(うるお)してきた。
この開発地は奈良時代まで遡(さかのぼ)るであろう。 中央の「三十六丁縄手」は「とおもん」の中央道路である。 永きにわたってこの「田面」で繰り広げられた水争いや農民の営みを知る良好史料である。
(森町飯田 個人所蔵文書)

(2)下天方村絵図

下天方村絵図

天方三郎左衛門の開発の地で、元禄期の屋敷割や所持田地が記載されている。
(森町飯田 個人所蔵文書)

(3)森町村絵図

森町村絵図

天保期に画かれたもので未完。 筆者は山中豊平。
森町の街並や蓮華寺山の様子がよくわかる。 
街並みにはずれに薬師堂が、西の田の中に南鳳寺(金守神社)がある。 庵山には、心月庵がカヤぶきで画かれ、その横に随松寺、そして蓮華寺の諸堂が立ち並んでいる。 村役人の家は町の中に少し大きな建造物で区別している。
(森町森 個人所蔵)

(4)大鳥居村絵図

大鳥居村絵図、田は黄色、畑は赤色で塗られている

明治4年に画かれたもので、吉川と三倉川合流点(落合)がよくわかる。 田は黄色、畑は赤色である。 
(森町大鳥居 個人所蔵)

(5)三倉上ノ平の集落

三倉上ノ平の集落の写真

上ノ平とは、中村の上にある平らな集落で、ほとんどが山と少しの茶園。 近世と大きな違いはないであろう。
(森町三倉 上ノ平)

(6)八ヵ村知行に対する口上書

八ヵ村知行に対する口上書の写真

延宝7年(1681年)の秋、旗本土屋氏入部に対する村民の口上書で、従来の支配や村政の状況を訴え新たな知行主に対して諸事の要望をしたものである。 森町村をはじめ近世初期以来の名主層の名前が見える。
(森町円田 個人所蔵文書)

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