13 田能天王社大般若経

更新日:2019年03月05日

14世紀は、1333年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡、後醍醐天皇による「建武の新政」・南北朝の争乱と合一(1392年<明徳3年>)と次々に大きな事件が起こった。町域でもいろいろな動きがあった。飯田荘加保村等の地頭であった備後の山内通継は、足利尊氏軍に従い、各地を転戦した。のちの飯田郷領主山内氏はこの所領を受け継いでいる(系譜的関係は明確ではない)。1351年(正平6年)周防国(山口県)の常陸親王(南朝の皇子)の許に一宮社の関係者と思われる「一宮(いちのみや)源蔵人大夫(みなもとのくろうどだゆう)入道(にゅうどう)」が従っている。また、この頃一宮庄大田郷(おおたのごう)一藤名(いちふじみょう)は少貳(しょうに)氏の所領となっている。この子孫はのち、武藤氏と改称、室町幕府奉公衆となる。
南北朝期の1384年(永徳4年)〜1387年(嘉慶元年)にかけて、三倉郷 田能 ( たのう ) 「天王社」の大般若経600巻が書写された。

これは現在町域に残っている確実な最古の文字資料で、御経を書写した人物・寺社名・所在地名・金銭等を援助した人物等が記載されており貴重な資料である。大般若経は災いを除き、天下太平・国土安寧などに効力があると信じられ、中世では転読(てんどく)が社寺の年中行事に組み込まれていた。この頃、岩室寺や一宮庄天満宮でも大般若経書写されていた。大般若会は、その後も行われ、人々身近な現世利益(げんぜいりやく)を祈念したのであろう。
この時期、遠江の守護は今川氏であった。今川氏は守護権限を最大に活用して、遠江の武士を権力機構に組み込んでいった。やがて、15世紀初頭、守護職は斯波氏(しばし)に交替し、以降、1世紀にわたる支配が開始された。

(1)田能の集落

田能の集落の風景写真

中央の美山は白山で、手前に集落が見える。 田能は田尾(たお)で山の窪んだところを意味し、春埜山・大日山・秋葉山などの北遠霊山への中継地として栄えた。

(2)大般若経

大般若経の写真

全六百巻が残されており、古態(こたい)を残す巻子本である。 現在、静岡県指定文化財で、近隣では、岩室寺(森町・豊岡村) ・ 一宮天満宮や春野町の大時(おおとき)でも書写されたことが確認されている。
(森町三倉 蔵泉寺所蔵)

(3)十六善神画蔵

十六善神画蔵の画像

大般若会には、この画像を本堂に掛ける。
「大般若経」を守護する十六の夜叉神で、釈迦十六善神ともいうが、般若会の時は本尊として用いられている。 本来当所に伝来したものは、大内氏の贈賜したものであったと言われるが、戦乱で紛失したと箱書きにある。 この画像は、1637年(寛永14年)三倉喜兵衛と蔵泉寺の存秀首座両人によって買い取って寄進したもので、毎年正月11日に大般若会をしたということも箱書きに残されている。
(森町三倉 蔵泉寺所蔵)

(4)蔵泉寺

蔵泉寺の外観画像

山号を龍池山と称し、古くは天台宗であったと伝えられている。集落全体にいくつかの坊や関係の建物が存在していたことが地名からも理解できる。
(森町三倉 田能)

(5)田能大般若会

田能大般若会の様子

現在、1月15日と8月1日に大般若経の転読がおこなわれており、かつては、北遠一帯の人々が参加していた。
疫病退散を祈る重要な法会である。

(10)古瀬戸瓶子

古瀬戸瓶子の画像

 (森町一宮 真田出土) 

このページに関する
お問い合わせ先Inquiry

社会教育課 文化振興係

〒437-0215
静岡県周智郡森町森92-1
電話番号:0538-85-1114
メールでのお問い合わせはこちら