22 森町の鋳物師

更新日:2019年03月05日

近世を通じ、遠江・駿河両国の鋳物師(いもじ)を支配したのが森町村の山田七郎左衛門家であった。
遠江一宮近辺を拠点とする鋳物師の存在は、南北朝期までさかのぼることができる。その後、蓮華寺・今川氏などとのつながりをもちながら、近世森町鋳物師へと連なっていくのである。
山田七郎左衛門は、1587年(天正15年)、小牧の陣従軍などの功績により、徳川家康から「 駿遠 ( すんえん ) 両国鋳物師惣大工職」の朱印状を与えられた。当時の鋳物師は、大砲や石火矢など最新の兵器を製造する技術者でもあり、軍事的な必要性から徳川軍に組み込まれたのである。
幕藩体制成立後、平和な時代の到来とともに、鋳物氏の経営にも大きな変化が現れる。それまでの軍需中心の経営は行き詰まりをみせ、民間需要への転換が進められる。

このような変化のなかで、近江出身の鋳物師が駿遠に入り込み、在地の鋳物師の経営を圧迫していく。これに対し、山田家は約80年かけて、ようやく自らの支配体制を確立する。この支配の根拠が家康朱印状であった。
近世の鋳物師の主力製品は、鍋や釜であった。遠州では、鋳物師が鍋釜商人に山田家が定めた価格で請売りをさせる方式をとっていた。この他、栄泉寺・大洞院・可睡斎など各地の寺院に残る 梵鐘 ( ぼんしょう ) が鋳物師の活動を物語っている。
幕末期、山田氏は、森町などの知行主であった土屋氏の用達金などを賄い、また陣屋の代官に登用されるなど、鋳物師以外の活躍も大きい。

(1)暦応五年の綸旨

暦応五年の綸旨左側画像暦応五年の綸旨右側画像

暦応五年の年号があるが、これは山田家が、1732年(享保17年)に京都の真継家より、紛失による再発給という形で入手した偽文書である。 しかし、正式な発給手続きを経ているため、権威ある文書と見なされた。
(東京都 個人所蔵)

(2)徳川家康朱印状

徳川家康朱印状の写真

1587年(天正15年)、徳川家康により、山田七郎左衛門戸は、「駿遠両国鋳物師惣大工職」に任じられた。 当時の鋳物師は最新の兵器を製造する技術者でもあった。 この朱印状は、後に駿遠の鋳物師支配の根拠となった。
(東京都 個人所蔵)

(3)大洞院龍門橋 擬宝珠 ( ぎぼし )

大洞院龍門橋の擬宝珠 ( ぎぼし )の写真

龍門橋の擬宝珠8本は、山田七郎左衛門が1785年(天明5年)に鋳造したものである。 
(森町橘 大洞院)

(4)雲版

雲版の写真

山田の作品としては珍しい遺品である。 銘に「当院独住四世久林養洲代新添 施主森中町山田七郎 明治十九年十二月吉祥日」と彫られている。 
(森町橘 大洞院)

(5)秋葉山奥院勝坂不動堂鐘

秋葉山奥院勝坂不動堂鐘の写真

1722年(享保7年)に山田七郎兵衛種重が大工となった鐘で、施主は秋葉7世運任宗である。
(袋井市 可睡斎所蔵)

(6)高平山大仏

高平山遍照寺の大日如来坐像の写真

高平山遍照寺の大日如来坐像は、露座(ろざ)の金仏では東海地方最大のものである。 1718年(享保3年)、江戸鋳物師太田近江が配下の鋳物師とともに鋳造したもので、山田七郎左衛門は駿遠両国鋳物師惣大工として名を刻んでいる。
(森町飯田 高平山遍照寺)

(7)双盤注文請取証

双盤注文請取証の写真

遠州では大念仏の際、あるいは半鐘代わりに使われた鉦である。駿遠では長年、山田家が独占的に製造および販売を行っていた。しかし、実際には江戸鋳物師が鋳造したものが数多く流入していた。
(森町円田 個人所蔵)

(8)法多山鐘鋳造の図

法多山の鐘の鋳造を描いた絵の写真

1838年(天保9年)、山田七郎左衛門は、法多山の鐘の鋳造を2人の手代を率いて指揮した。 この際、紋付に烏帽子(えぼし)を着用し、脇では、飯田の最勝院(さいしょういん)が祈祷をしていた。
(個人所蔵)

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