22 森町の鋳物師
近世を通じ、遠江・駿河両国の鋳物師(いもじ)を支配したのが森町村の山田七郎左衛門家であった。
遠江一宮近辺を拠点とする鋳物師の存在は、南北朝期までさかのぼることができる。その後、蓮華寺・今川氏などとのつながりをもちながら、近世森町鋳物師へと連なっていくのである。
山田七郎左衛門は、1587年(天正15年)、小牧の陣従軍などの功績により、徳川家康から「 駿遠 ( すんえん ) 両国鋳物師惣大工職」の朱印状を与えられた。当時の鋳物師は、大砲や石火矢など最新の兵器を製造する技術者でもあり、軍事的な必要性から徳川軍に組み込まれたのである。
幕藩体制成立後、平和な時代の到来とともに、鋳物氏の経営にも大きな変化が現れる。それまでの軍需中心の経営は行き詰まりをみせ、民間需要への転換が進められる。
このような変化のなかで、近江出身の鋳物師が駿遠に入り込み、在地の鋳物師の経営を圧迫していく。これに対し、山田家は約80年かけて、ようやく自らの支配体制を確立する。この支配の根拠が家康朱印状であった。
近世の鋳物師の主力製品は、鍋や釜であった。遠州では、鋳物師が鍋釜商人に山田家が定めた価格で請売りをさせる方式をとっていた。この他、栄泉寺・大洞院・可睡斎など各地の寺院に残る 梵鐘 ( ぼんしょう ) が鋳物師の活動を物語っている。
幕末期、山田氏は、森町などの知行主であった土屋氏の用達金などを賄い、また陣屋の代官に登用されるなど、鋳物師以外の活躍も大きい。
(1)暦応五年の綸旨
暦応五年の年号があるが、これは山田家が、1732年(享保17年)に京都の真継家より、紛失による再発給という形で入手した偽文書である。 しかし、正式な発給手続きを経ているため、権威ある文書と見なされた。
(東京都 個人所蔵)
(2)徳川家康朱印状
(3)大洞院龍門橋 擬宝珠 ( ぎぼし )
(4)雲版
(5)秋葉山奥院勝坂不動堂鐘
(6)高平山大仏
(7)双盤注文請取証
(8)法多山鐘鋳造の図
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更新日:2019年03月05日