森町関係略年表(~安土桃山時代)

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森町関係略年表(〜安土桃山時代)

●森町関係記事 / ○備考

森町年表(安土桃山時代まで)
西 暦年 号内 容
645 大化天皇元年 大化の改新。
701 大宝元年 大宝令制定。
710 和銅3年 平城京遷都。
このころ、東海道が整備され、各地で条理制が施行される。
722 養老6年 2月16日、佐益郡8郷を分割して山名郡とする。
このころ、飯田観音寺門前付近に集落が営まれる(坂田北遺跡)。
738 天平10年 駿河国正税帳に磐田郡散事大湯坐部(さんじおおゆかんなぎべ)小國の名がみえる。
741 天平13年 国分寺建立の詔(みこのとり)。以後、各郡ごとに郡家(郡役所)が整備される。
752 天平勝宝4年 東大寺大仏開眼。
このころ、円田北垣に大掛かりな建物が建てられる。(粟倉北垣遺跡)。
794 延暦13年 平安京遷都。
840 承知7年 6月24日、遠江国周智郡無位小國天神および同国磐田郡無位矢奈比売天神(むいやなひめてんじん)を従五位下とする。
860 貞観2年 正月27日、敬満(けいまん)神社を正四位下に、苅原河内神・小國神・鹿苑神を従四位下に、矢奈比売神・事真知乃神(ことまちのかみ)に正五位を授ける。
874 貞観16年 2月23日、苅原河内・小國神に従四位上を授ける。
881 元慶5年 10月5日、磐田郡を割いて山香郡が設置される。
931~938 承平年中 源順、醍醐天皇皇女勤子内親王の命により、倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)を選述し、遠江国の諸事を定める。
1081 永保元年 全国22の大社に朝廷の奉幣(ほうへい)がなされ、各国の国神祭が確立する。
1082 永保2年 10月17日、神祇伯(じんぎはく)(皇)康資王、清原則房を遠江国小國社の神主に補任する。
1083 永保3年 8月27日、遠江国司藤原惟信(これのぶ)、清原則房を小國社の宮司職に補任する。
1097 承徳元年 9月28日、都の僧実誉(じつよ)、遠江国小國社神宮寺神官別当が従五位下を買官したことを上申する。
1108 天仁元年 このころ、天方鍛冶に友行(重永)あり。
1126 大治元年 12月21日、遠江国石室寺に如法経が埋納(まいのう)され、遠江目代が願主となる。
1165 永万元年 6月、神祇官に対し、遠江国では小國社が八丈絹五疋を貢納(こうのう)する。
1168 仁安3年 9月18日、小國社の本殿の背後に如法経が埋納される(小國神社経塚)。
1180 治承4年 8月、源頼朝、伊豆に挙兵、10月、安田義定遠江守護となる。
1185 文治元年 3月、檀那藤原行直発願の大般若波羅蜜多経を法多山や蓮華寺の僧が書写する。
1186 文治2年 4月21日、遠江守護安田義定、源頼朝に謁(えっ)し、遠江石室寺などの山寺における源義経の探索について報告する。
このころ、田能の阿弥陀如来坐像・岩室寺の丈六金剛界大日如来像・米倉郷極楽寺の阿弥陀如来坐像が開眼される。
1188 文治4年 5月、願主守護義定、遠江国巖室寺血極谷で大般若波羅蜜多経を書写させる。
1192 建久3年 この年、後白河法皇が没し鎌倉幕府が開かれ、頼朝が征夷大将軍となる。
1209 承元3年 6月20日、願主藤原行直による大般若経の書写が蓮華寺栄賢らによって行われる。
1227 安貞元年 法然の高弟隆寛、遠江見付国府に逗留(とうりゅう)の際、同門の蓮華寺禅勝房と再会する。
1235 文暦2年 2月13日、藤原家貞・同源次郎、遠江鎮守小國一宮に起請文を立てる。
1237 嘉禎3年 12月9日、中原某、京より蓮華寺の経田、もりやまの屋敷の事について、蓮華寺竪者御房に返事を送る。
1258 正嘉2年 10月4日、遠江国蓮華寺禅勝房入定する。
1265 文永2年 2月7日、遠江国三代起請地・三社領注文が作成され飯田荘・山名荘が見える。
1269 文永6年 12月15日、蓮華寺法観房が入定する。
1273 文永10年 3月12日、遠江国岩室南谷において、大般若波羅蜜多経が書写される。
1275 建治元年 5月、京都六条八幡宮の造営料を負担した御家人の中に、遠江国の10名余が含まれ、山名荘人々に十貫文が割り当てられる。
1281 弘安4年 12月28日、将軍源惟康、山内首藤通茂に遠江国飯田荘上郷内筥島(かみごうのうちはこじま)・西俣・加保村などの地頭職を安堵する。
年次不詳 月日不詳、藤原通増、遠江国飯田荘内加保村・筥島村内屋敷名田などを安堵。
1314 正和3年 10月9日、岩室登山口の安養院が開かれるという。
1327 嘉暦2年 10月28日、遠江国内田致景、同国飯田荘内田地の相論について、守護大仏貞直より真偽究明を命じられ、飯田里・打越田・楠木などの地名がみえる。
1333 元弘3年 鎌倉幕府滅亡し、7月~9月、今川範国が遠江守護に任ぜられる。
1334 建武元年 建武の中興。5月7日、一・二宮の本家・領家職の停止が命ぜられる。
1335 建武2年 11月28日、山内首藤通継、遠江国飯田荘内加保村地頭職などを、同通知に譲る。
1336 建武3年 2月5日、少弐貞経、一宮太田郷内一藤名地頭職を、子資経に譲る。
1337 建武4年 9月26日、足利尊氏、駿河国羽梨荘、遠江国河合・八河両郷などを今川範国に宛行い、谷川に代官所が置かれたとみられる。
月日不詳、今川範国、北軍に加わり、遠江国三倉山に陣取る。
1338 暦応元年 足利尊氏征夷大将軍となる。
1340 暦応3年 4月、高義胤(こうのよしたね)、遠江国衾田郷地頭職の替地を幕府に請う。
1351 正平6年 7月30日、周防国に御座する常陸親王の使者に、遠江国一宮源蔵人大夫入道の名が見える。
11月26日、洞院公賢(とういんこうけん)、遠江国飯田荘などを後伏見上皇に安堵した元弘3年の後醍醐天皇綸旨を、日記に書き留める。
1361 康安元年 月日不詳、熊野山新宮造営料所遠江国衙領目録に石河・中田郷と見える。
1364 貞治3年 4月8日、遠江国府中蓮光寺の鐘が鋳造され大工一宮住西願・崇一が追刻する。
1368 応安元年 12月28日、思案房入定する。
1377 永和3年 8月、遠江国観音寺が、本寺法勝寺再興のため、毎年2貫文を支出することが定められる。
1384 永徳4年 3月1日、源光盛(道圭)勧道檀那となり、大般若波羅蜜多経を書写し、御倉郷田尾天王宮に施入する。この後、至徳4年(1387)ごろにかけて諸人、諸所において書写、納経され、600巻となる。
1390 明徳元年 10月5日、東寺最勝光院方、遠江国原田荘細谷郷所務代官を、祖葉から同国観音寺少納言坊に更迭する。
10月9日、東寺最勝光院方、観音寺少納言坊を遠江国原田荘細谷郷所務代官に補任する。
1392 明徳3年 南北朝の合一成る。
この年、如仲天珖、飯田院内に草庵(如仲庵)を結ぶという。
1394 応永元年 この年、能登総持寺の僧金龍玉光来り、戸和田行観寺の跡を再興(さいこう)し、宗侍寺とするという (のち宗源寺と改める)。
1396 応永3年 6月晦日、舜慶、遠江国蓮華寺の熊野檀那職を、廊執行法印に売却する。
1397 応永4年 3月、遠州一宮荘粟倉熊野三所権現鰐口が奉納される。
1401 応永8年 正月、山内道美、崇信寺に寺領を寄進する(開山如仲天珖)。
1407 応永14年 9月9日、藤原通国、飯円荘戸和田郷賀茂宮に鰐口を奉納する。
1408 応永15年 この年、不琢玄珪(ふたくげんけい)、雲林寺を開く。
1411 応永18年 この年、如仲天珖、大洞院を開く。
1420 応永27年 6月5日、少弐満貞、遠江国一宮太田郷内一藤名地頭職を武藤白幡に安堵する。
1424 応永31年 5月8日、遠江国一宮荘天満宮の大般若波羅蜜多経が書写される。
1425 応永32年 12月16日、飯田城主山内対馬守道美没する(法名玉山道美)。
1428 正長元年 8月15日、大洞院の鐘が造られる(鐘銘(しょうめい)に「住持比丘天珖(じゅうじびくてんぎん)」「檀越沙弥玄本(だんえつしゃみげんぽん)」「施主沙弥聖有(しゃみせいゆう)」「化主比丘周嶷(げしゅびくうしゅうぎ)」「大工藤原権守盛家」とある)。
この年、谷脇山万松寺が開かれるという。
1430 永享2年 4月14日、如仲天珖越前竜沢寺に入院、同月宗越、宝太寺(向天方)を開く。
1432 永享4年 12月2日、室町幕府、遠江国一宮荘代官職を武藤用定に安堵する。
1437 永享9年 9月15日、一藤山随松寺が開かれるという。
12月15日、太田山西光寺が開かれるという。
1440 永享12年 2月5日、如仲天珖没する。享年76歳。
1444〜55 文安元年〜享徳4年 このころ、武藤遠江守(用定)、室町幕府奉公衆として在任中(左京亮信用、その跡を継ぐ)。
1446 文安3年 12月13日、法永叟、遠江国栗島護福寺毘沙門堂に鰐口を奉納する。
1449 宝徳元年 6月15日、雲林寺開山不琢玄珪没する。
1457 長禄元年 7月8日、崇信寺石叟円柱、同寺に没する。享年69歳。
1466 文正元年 4月5日、備中国洞松寺洞鶴、三倉郷大河内ミソドコに栄泉寺を開く。
1467 応仁元年 5月、応仁の乱起こる。
1477 文明9年 11月、応仁の乱終る。
1485 文明17年 正月初旬、戸和田郷藤原相順・通種兄弟、松堂の許に年賀に赴き、通種「山家雪」と題し歌2首を詠む。松堂、唐律を以てこれに和(なご)す。
8月10日、大洞院におけ受戒会に一宮・天宮の者が参加する。
1487 長享元年 正月、戸和田郷藤原通信、賀茂三所大明神に鰐口を奉納する。
年次不詳 室町幕府奉公衆の中に武藤遠江守(用定)・武藤孫三郎・同弥四郎・同孫四郎が見える。
1494 明応3年 8月、伊勢早雲、軍兵を率いて遠江3郡に進攻する。
1496 明応5年 このころ、飯田荘観音寺の藤原氏の子愛菊丸幼くて和歌を詠む。
1494〜99 明応3.9〜8.1 今川氏親の遠江経略(中遠地方の征討)。
月日不詳、松堂、せん公知蔵(せんこうじぞう)の五言について一首を賦(ふ)す(一宮荘円田郷粟倉之村、粟倉前・安楽大長者などとあり)。
月日不詳、松堂、大洞院へ黄柑を寄せ、漢詩を呈(てい)す。
1501 文亀元年 7月、信濃国の小笠原軍、斯波軍応援のため遠江へ出陣。
この年、天方城(天方本城)に楯籠った斯波軍を今川方の久野・渋谷・本間等が攻める(のち永正7年の本間宗李軍忠状に記される)。
この年、大鳥居八幡宮が勧請(かんじょう)されるという。
1505 永正2年 2月11日、松堂高盛没する。
3月13日、助岑祥佐(じょきんしょうさ)、大鳥居に蔵雲院を開く(開基天方通季(みちすえ))。
11月20日、三倉(大久保)太慶寺が開かれるという。
1510 永正7年 3月20日、本間宗季、今川氏親に軍忠状を提出し、証判を受ける。
1512 永正9年 11月3日、願主某、一宮庄緑田郷中山寺に鰐口を寄進する。
月日不詳、富士浅間神社の道者帳奉加の中に、あまがた・いちのみや・もりいちば・はね・くさがわ・みやしろなどが見える。
1516 永正13年 8月、谷川大信院・石川地蔵寺・牛飼大福寺が不琢によって開かれるという。
1520 永正17年 9月19日、城下牛頭天王社(谷本神社)創建されるという。
1522 大永2年 4月27日、源氏延、遠江国分寺に、東金谷秀時が鋳造(ちゅうぞう)した鰐口を寄進する。
9月3日、九鼎道軽(天方山内村落合入道)没する。
1524 大永4年 5月7日、道芬(天万氏)上洛、三条西実隆に葛2端を贈る。
1526 大永6年 正月4日、実隆邸における宗碩嘉例の酒席に道芬・周桂・宗牧等の名が見える。
4月、今川氏親、家法「今川仮名目録」を定める。
1528 大永8年 3月28日、今川氏輝、匂坂長能に本領を安堵する(なかに牛牧村あり)。
1529 享禄2年 3月、三倉尺平の栄泉寺が洞平(ほらだいら)へ移転するという。
5月12日、近江守(二俣昌長)、瀬尻善左衛門尉の戦功を賞し、年貢銭を免除する。
1530 享禄3年 6月30日、今川寿桂尼(じゅけいに)、米倉極楽寺の寺領・住持職を安堵する。
1533 天文2年 11月、仁和寺尊海、天方道芬庵を訪ねる(21日道芬庵において、さらに山内刑部少輔館において連歌の座興行)。
1534 天文3年 8月、このころ、黒石の万福寺が開かれるという。
1535 天文4年 2月、道芬、三条西実隆に椎茸1袋、茶5袋を贈る。
2月、森渕山梅林院が潔叟(けっそう)によって曹洞宗になるという。
1536 天文5年 2月17日、今川氏奉行人朝比奈親徳等、熊切尾上彦太郎に宛て、天方知行地内にいる被官百姓等の還住(かんじゅう)を命ずる。
1541 天文10年 5月、椿翁永松(ちんおうえいしょう)、西俣に福泉寺を開くという。
1543 天文12年 9月6日、今川義元、天宮神主中村新左衛門尉に対し、同社の禰宜・乙女・神役人以下の支配を認めるなど、三ヵ条を命ずる。
1545 天文14年 3月、山内通泰、崇信寺の寺領を安堵する。
3月、天方通季没する(明室道分)。
この年、宣翁全忠(せんおうぜんちゅう)、草ケ谷に香勝寺を開く(開基武藤氏定)。
1552 天文21年 12月15日、三倉俊宗等、三倉郷(大久保)の八幡宮を再建する。
1553 天文22年 8月13日、今川義元、武藤刑部少輔と中村助太郎との所領相論を裁許し、中村氏に実国在家・別当在家を還附する。
このころ、神主藤原重真粟倉三社(粟倉・白鬚・八幡)大明神を松ヶ谷に遷宮するという。
1555 弘治元年 この年、三河国慈廣寺雲耕、森淵山梅林院を再興するという。
1557 弘治3年 4月17日、武藤氏定、天宮郷内の中村助太郎の所領を認める。
このころ、西脇に埋蔵銭が埋められる。
1559 永禄2年 7月4日、今川義元、中村助太郎と武藤氏定との相論を裁許(さいきょ)する。
1560 永禄3年 5月、織田信長、今川義元を尾張桶狭間に破り、義元戦死(42歳)。
1561 永禄4年 4月5日、今川氏真、飯田観音寺などの住持職を増善寺長老の指南として安堵する。
1564 永禄7年 9月9日、今川氏真、「遠州そう劇(えんしゅうそうげき)」につき、中村大膳亮に国家安泰の祈念を命ずる。
1565 永禄8年 9月3日、東山四郎左近、応永14年藤原通国が戸和田郷賀茂宮に施入した鰐口を大尾山顕光寺に再寄進する。
1568 永禄11年 9月21日、今川氏真、津留奉行に対し、犬居郷へ運ぶ兵粮につき、毎月5駄宛奥山左近へ渡すため、森・二俣口での通過を命ずる。
1569 永禄12年 6月、天方・飯田両城、徳川家康に攻められ落城。天万城(城主天方通興)は降伏、飯田城は、城主山内通泰(法名旅庵通宿)以下討死(しかし、通泰の庶子伊織は家臣梅村彦兵衛に伴われて三河へ落ちのびる)。
1570 永禄13年 この年、宗虎(香勝寺二世)、鴨岡に一鴨山玉泉寺を開くという。
1570 元亀元年 2月、粟倉村大庭右衛門など武田方の人質となって甲斐国へ赴く。
このころ、梅林院宣翁全忠和尚、森の旦那衆を引き連れ江尻へ逃げる。
1571 元亀2年 8月7日、正親町天皇、徳川家康に、蓮華寺の一宮寺務供僧領などの返付を命ずる。
1572 元亀3年 10月中旬、武田信玄、兵を率いて遠江に入り、只来・飯田城などを攻略する(また、信玄に従ってきた遠江の地侍たちは天方・向笠・一ノ宮・各和にそれぞれ持城を構えた)。
12月、信玄、家康を三方原に破り、その居城浜松城に迫る。
1573 元亀4年 3月、徳川家康、平岩親吉に天万城を攻めさせる。守将久野弾正宗政(武田方)敗れ、再び甲州へ逃げ去る。向笠・一ノ宮その外の小城は戦わずして降参。
9月、徳川・武田両軍、森・山梨辺で戦う。
1574 天正2年 4月6日、徳川家康軍、犬居攻略の帰途、田能・大窪村で天野藤秀軍および郷民の奇襲をうける(かなりの死傷者を出し、三倉を経て天方城に退く)。
1575 天正3年 2月27日、徳川家康、小國鹿薗大菩薩(ろくおんだいぼさつ)の社頭一宇を造立させる。神主鈴木源左衛門重勝。
1576 天正4年 2月、徳川軍犬居へ出陣、勝坂砦(かつさかとりで)を攻め、楢山城を落とし、三倉・天万氏等を在城させる。
1577 天正5年 7月11日、大須賀康高、梅林院へ知行地の内5反2杖を寄進する。
12月27日、某、森市場に禁制を掲げる。
1579 天正7年 9月15日、徳川家康、二俣へ天方通綱等を遣わして、信康に切腹を命じる。
1581 天正9年 3月22日、徳川家康軍、武田方の守る高天神城を攻め落とす。攻撃軍に三倉定次の名が見え、守城軍に加わった武藤氏定は討死、(法名興岩道清)。
1582 天正10年 3月、武田勝頼、信長・家康に攻められ、甲斐田野で自害(37歳)。
6月、明智光秀、本能寺に信長(49歳)を囲み、自害させる。
1583 天正11年 12月7日、徳川家康、小國鹿薗大菩薩の社頭を造立させる。神主豊前守重勝・勾当観智(こうとうかんち)北嶋孫左衛門秀吉・当社大工高木助右衛門。
1585 天正13年 豊臣秀吉関白になる。
1587 天正15年 1月15日、山田七郎左衛門、徳川家康より「駿遠両国鋳物師惣大工職」の朱印状を与えられる。
1589 天正17年 2月5日〜7日、周智郡草ヶ谷付に徳川氏の総検地が実施される。
7月7日、徳川家康、領国の諸郷村に七ヵ条定書(谷崎・牛飼・福田地・天方・谷河・薄場・橘・森・天宮)を下す。
12月18日、徳川家康、寺田右京亮をして天宮菩薩社の社頭を造営させる。
このころ、森村は、現在の川原町に、大明神山(三島山)山麓から十七夜(金守神社)まで一通りに家が立ち、この状態で天正17年の検地を受けた。
1590 天正18年 5月21日、可睡斎十一世仙鱗等膳(せんりんとうぜん)没する。
9月、山内一豊、掛川城主となる。
10月25日、豊臣秀吉、山内一豊に周智郡一宮筋(いちのみやすじ)の蔵入地11980石を預ける。
12月、某、一宮・天宮両社神領675石1斗を安堵する。
12月、粟倉村住の一宮大禰宜鈴木太郎左衛門、舞楽役を仰せ付けられる。
このころ、一宮神領の代官所(神主屋敷)が片瀬に置かれる。
1573〜91 天正年間 このころ、飯田市場の本立寺が開かれるという。
1592 天正20年 12月7日、山内一豊、高雲寺に寺中屋敷・山林を寄進する。
1595 文禄4年 7月15日、豊臣秀吉、一豊に一宮筋の蔵入地の内から8000石を加増。
8月4日、豊臣秀吉、山内一豊に一宮筋の蔵入地2964石を預ける。
1597 慶長2年 2月3日、横崎門七・青木惣兵衛、森の鋳物師大工および小子6人の諸役を免除。
12月、豊臣秀吉、観世座への配当米を、久野城 松下岩見・掛川城 山内つしま・浜松城 堀尾帯刀らに割あてる。一宮大禰宜鈴木太郎左衛門、松下岩見の支配を受ける。
1599 慶長4年 11月11日、小栗吉忠、山田七郎左衛門に金谷などの吹屋の人足役を免除する。

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